副題は、今に生きる例とします。
前回の礼の「形式」を受けて、私の持論である「形式と本質」の観点から、今度は現在に生きて使われている礼のお話をば。w
辞書や辞典で載ってる事柄は、いわば「形式」的な礼のカタチと言ってもいいです。これを活かすには、私達の生活でどのような影響を及ぼすかがむしろ大事なんですよね。
要するに礼は、東洋生まれのものです。では西洋では通じないのか、あるいはなじみのないものなのか。
それと、本来の意味は前回述べた(あるいは詩乃ちゃんがいってくれたように)儀式・祭礼の作法のことでした。ではなぜそれが、現代において人と人とをつなぐコミュニケーションたりえるのでしょうか。
これらの疑問を一発で裏付けてくれた書物がありました。
私は両親に、年頃になったら繰り返し読みなさい、といわれた2つの書物があります。父が一冊、母が一冊。よって2冊。不思議なことに、書いた人の背景はぜんぜん別物なのですが、たどり着くところは一緒なのだそうです。
そのうちの一つが父のバイブル・Dカーネギーの「人を動かす」という本。
内容を大まかにいうと、商業家としての観点から、人を動かすための、大げさにいえば帝王学とかその辺をまとめたものです。私がこの本を渡されたのは高校のとき。たしかに一度は読みましたけど、内容がさっぱりでしたね^^;ほんとに生き始めたのは、会社にはいってフロアリーダーという任を受けてから。。
その中でカーネギーは、利と
礼のかかわりで人を動かすことを極意としています。もちろん礼という言葉自体は西洋にはありません。あてはめたのは訳家でしょうが、内容は紛れもなく礼そのものなんです。人が動くためにモチベーションが必要になります。なにより、自発的に「なにかをやろう」とする気持ちにならなければ、いい結果もでませんし、いい方向にすすまないのです。そのモチベーションを高めるには、一つには利=つまり報酬だとか、それをやることによってその人が得をすること、それと人間がもっとも喜ぶことは「自分自身の人間性が認められること」であるから、そのために礼をつくすのだ、と。この双方を積極的にかかわりあわせ、人が動くのです。w
商業家の発想なので、いくらか書き方は作為的にやるようなことを書いてますが、これを単に不作為にしたのが礼の本質ではないかと思います。
私にとっても、礼は人と人とをつなぐための、最重要項目であると思います。今は再びコミュニケーションの大切さがクローズアップされてきていますが、昔は誰でもやってたことなんですよね~・・。これを退化とみるか進化とみるか、それはこれから次第なのかも。
マビで、こんな例がありました。
私がぼんやりとキャンプファイヤーを焚いて座っていると、2人の人が別々にきました。
一人の人は、「すいません、使わせて下さい」といったので、独り占めするつもりのなかった私は、「どうぞー」と答えました。そしたら「ありがとうございます」といって不要物を燃やして去りました。
もう一人の人は、火の側にやってきて物を燃やすと、そのまま去りました。
どちらの人も、私の焚いた火を使って不要物を燃やしたかったようです。私は特にPTチャットも何も出していなかったので、一見するといないようにも見えるかもしれません。w
さて、考えてみてくださいw