徳川家康は、徳川幕府を開いた人です。
・・・ですが、今回の記事の趣旨は、その歴史事実ではありません。
時間を追ってきて、辿り着いた一つの結論ということです。
古くから、人間型をさす言葉で、織田信長型・豊臣秀吉型、そして徳川家康型と、よく天下取りをした3人が比較対象に使われます。解釈の仕方は様々で、また辿り着く結論も人によって様々です。そういうわけで、ひょっとしたら人によっては意外に思うかもしれませんけどね。
徳川家康は、この3タイプの中で、唯一「王道」を歩む人です。大勢に耐え・堅実に力を伸ばし、最後は天下を手に入れました。もちろん、私がそれを言うのは根拠があるわけです。
「王道に奇策なし」
王道を歩む人には、下手な策を弄する必要がありません。家康自身もそれを経験しています。堅実に歩みを進めるタイプでは、下心からでた策に手をだすと、かえって痛い目にあうのです。
いろいろありますが、私は「三方ヶ原の戦い」を例に挙げましょう。
戦いのエピソードは、当時最大勢力を誇った武田信玄が、いよいよ上洛に動くという場面。武田信玄はご存知の通り甲斐・信濃の大名で、家康は三河の大名でした。上洛、ということなので京都方面に動くわけですが、家康のいる場所がちょうど背後にあたるわけです。家康は織田信長と盟友関係だったわけですから、武田の勢力を削ぎたかったわけで、このときに欲を出した家康は、武田を背後から攻めようと奇襲を思いつくわけです。
ところが、相手は王道の代名詞・武田信玄。家康のこの動きを事前に察知しており、両者は三方ヶ原で対決するわけですが、このとき家康は「誘い出された」形になってしまいます。時すでに遅く、家康は大敗北を喫して退却をしますが、信玄が追い討ちをかけなかったため、家康は命からがら逃げ延びました。
家康の思想というのは、お手本は同じ王道を行く武田信玄です。理由にこのときのエピソードがあるわけで、これ以後徳川には武田色がかなり濃厚になります。
そういうわけで、武田信玄自体にも、奇策を用いて失敗した例があります。
それはもうなんといっても「第四次川中島の戦い」でしょうね。謀将・山本勘助の策を採用し、霧に紛れて謙信を背後から攻めようとしましたが、謙信にそれを察知され、勘助をはじめ弟・信繁など、有能な家臣をたくさん失った結果になったのは、お正月にやった番組の通りです。
家康が天下を取れたのは、人をよく用いたというところにあると言えます。
家康の下には、知恵袋・大久保彦左衛門、伊賀越えをはじめ陰日向で支えた服部半蔵正成、勇将・本多平八郎忠勝をはじめとする徳川四天王など、それこそ信長や信玄もうらやむほどの人材がいました。故に用兵術・帝王学を学ぶということは、天下を取ること・・・私の人生を大成させることの重要な戦略になるわけですね。
そんなことを考えながら歴史を読み返すと、歴史はさらに面白くなります(笑)